Posts
哲学史の本を読むと、学問あるいは学知についての理解が少し深まる気がする。
しかし、フランスの哲学関係の本を読んでいると、著者がしばしば高校の先生だったりするのに驚く。
まあ、当地のシステムからすれば当たり前といえば当たり前だし、そういう人たちもうまくすれば大学の先生になれたりするのかもしれないが、それも人生かと思う。
ただ、いまさらながら、富や贅沢に対するある一定程度の執着心には驚かされる。
そんなに浪費家であるつもりはないが、結果として、今よりいい暮らしを! とか、もっと面白いことを! とか、今まで体験したことのないようなことを! とか、そんなことを無意識のうちに思っているようである。
足るを知り、細々と自分の好きなことをやっていくような性格には生まれつかなかったみたいだ。特に金銭面で不自由したわけでもないのに。
たしかに読書は精神をとても豊かにしてくれるが(とくに外国語の17世紀や18世紀の本や哲学史に関しての本は)。。。
あな情けなや、物質的な快楽は強い。
どこかで見切りをつけたいのだが、まだまだ当分無理そうである。
思い返せば大学の時は、人間関係が濃密であった。その中にいると気付かないことがあるものである。
学校というのもある種異様な空間だよな、と考えてしまうのは会社に慣れてきた証拠なのかと思う、今日このごろ。
ところで、泉ガーデンの書原はすごい本屋である。見たことのない本が置いてあるし、本の絶対量も多い。何であんなところにあんな本屋があるのだろうか・・・
ああ、しかし自分はなんて現金な人間なのだろう!
リゾートとか何のためにあるのかさっぱりわからなかったが、最近新聞の日曜版や雑誌にリゾートのきれいな写真があるとついつい目が行ってしまう。リゾートに行きたい。お金を使ってゆっくりしたい。週五日も会社に行くのがめんどくさい(暑いから)。でも働かなきゃリゾートに行けない・・・
なんだかんだ言っても、あの種のフィジカルな快楽は強いので、働いてリゾート行って働いてリゾート行ってそのうち子どもができちゃったから結婚して・・・ とかいう風にするのもよくわかる。人生としては十分ありな気はする。
良くも悪くもフィジカルな快楽は強い。お金を稼ぐにはフィジカルな(?)忍耐が多かれ少なかれ必要だし、お金を使ってするフィジカルに気持ちのいいことは他を以て代えがたい。
お金を稼がなきゃ生きていけないが、面倒くさいことに変わりはない。じゃあ、他に何かいい選択肢があるか(修行僧になるとか)というと、そういうものでもない。
しかも、リゾート的な快楽は実はけっこう好きなので(音楽の好みとも関連するとは思うのだが)、貧しいのはいやだ!
***
仕事を始めて哲学熱も冷めるかと思いきや、ついつい本を買ってしまうし、買った本もきちんと舐めるように読んでいるというわけではないのだが、読んでいるとそれはそれで発見があったりして困る。
しかも、いったい何故だか知らないが、哲学史とか思想史に強い興味をそそられるわけで、この辺が素人くさい。
哲学史についても、いろいろな哲学史があるわけで、一人の著者が書くものだと、かなりの程度その人の色が出たものになるし、必然的にマイナーな哲学者に対してはページが割かれない。
翻って、いろいろな著者の寄せ集め系の哲学史全15巻だとか、ある特定の人について書かれた論文を集めたアンソロジーだとかは、まあこれはこれでいいのだが、アンソロジーだからどうしても細分化されてしまう。17世紀哲学史の一巻本でも、Aさんはデカルト、Bさんはライプニッツ、とかいう風にしてごにょごにょ書いていくので、ツールとしては便利だが、面白みには欠ける。デカルト論文集ならデカルトのテクストだけ読んでそれについて論文を書いていく、という風な形になってしまうので、まあこれはこれできわめて重要には違いないが、いきおいページ数だけが厚くなっていくという悪循環が。
じゃあ、フランスのamazonで何を買って読んでいるかというと、いかにもフランス的な哲学史の本を読んでるというか読んだふりをしているのだが、別にデカルトばかり読んでいるわけでもなく、いくつか興味をそそられるものを買っていって、ぽんぽん読んだふりをしているのである。
要はスコラ哲学的なものの考え方(神学との調和を目指すべくして変性されたアリストテレス的なものの見方)が、17世紀以降急速に増大したいわゆる「科学的」な知と、どのようにぶつかりあって、現在の世界観につながっていくのか、みたいなところに興味があるわけである。
よりにもよって、何でこんなものに興味を持つようになったのか我ながらとても不思議でしょうがない。
はなはだ抽象的かつマニアックな領域だし、研究者を目指して論文を書くにはあまりに関心が曖昧模糊としすぎている(もうちょっとフォーカスを絞らなければ論文は書けない)。
なおかつ、フランスの哲学史本を読むのは明らかに娯楽の域に入っていて、多くの場合、非常に折り目正しく(慣れればわかりやすい)フランス語で書かれているので、そういうフィジカルな面での快感もあるというわけである。
読んでいるテクストの質でいうと、ハイデガーの講義録に近いかもしれない。
(あとはドイツ語が読みたい。本当にびっくりしたのは、ヴントという人がドイツ啓蒙主義について書いた本があるのだが、それは1945年に出ているんですね。その本が読みたい。それを読むためだけにドイツ語を勉強する価値はあるくらいのものである。あと、やっぱりカントの前のドイツ啓蒙主義についての文献も読みたい。)
知的なシステムを構築していくためには概念装置が必要なのだが、「神」とか「不動の一者」みたいな概念がかなりの間にわたって有効であり続けていた。
そういう概念はもはや(ほぼ)無効だが、その概念装置そのものについて、過去の思索を追ってみることで何かしら分かるのではないだろうか、とかなんとか考える。
気がついたらこの一か月で本代が70000円を超えてました。
ボーナスのおかげで財布のひもがゆるんだということである。典型的なサラリーマンと化しているわけです。
何を買っているかというと、ファイナンスの本ばかりで。
学生時代はちょっと買うのを躊躇してしまうような4000-8000円くらいの和書や洋書を買っている。
和書は古本でそこそこ安く買えるので、洋書代がそこそこかさむ。
加えて、5000円以下の本もぽんぽん買っていくとそれなりの値段になる。
5-10年くらい前の和書だと、1000円切っているのもあり、本屋で立ち読みしたりするのも面倒なので、迷うよりは買えでちょいちょい手当たり次第に買っていたら、部屋に山積みになりつつあって、たまにリュックでまとめて会社に持っていってる。
たまには人文系の本も、とか思って、フランスのアマゾンに注文出すと、あっという間に15000円を超える(ついつい、ドルと同じくらいの感覚でショッピングカートに放り込んでしまうが、10ユーロの本も1300円で3割増だから、気をつけないといけない)。
まあ、読書も仕事の一貫となるのだから、知的で時間に余裕のある仕事はいい。
ちなみに、この本はいい本です。
Paul Wilmott, Frequently Asked Questions in Quantitative Finance.
現行の第一版を、春先に買って延々と繰り返して読んでいるのだけど、実に直感的に数理ファイナンスの基礎から応用までを説明していて、感動した。
何よりも小さくて軽いのがいい。この種の分野の本を読みたくても、よくあるパターンの本としてはPearsonとかの教科書系出版社から出てるようなもので、800ページある辞書みたいなペーパーバックで、多くの場合重すぎて電車の中では読めないものとかなので、電車の中でお勉強ができるという点だけですばらしい 笑
問題は、仕事で使う分野とは少しターゲットとしている分野が違うというところなのだが、まあ、それはそれでいいというか。
買ってから知ったのだが、Wilmott氏はその筋では超有名人らしくw 『ブラック・スワン』のタレブとか『物理学者・ウォール街を行く』のダーマンとかのお友達ということらしい。氏のサイトには世界中のオタクが大集合。
ということを知るやいないや、ニューズウィークに記事が出てて、なかなかおもしろかった。
あと、Premiaというデリバティブ値付けソフトを見つけた、シンプルで使いやすい。別に自分でC++のコードとか書かないならこれで十分ではなかろうか。
ただ、値付けとかよりも、統計系のことの方が今の仕事では使うので、ファイナンス用統計学の勉強をしていかなければならない。
さて、3連休の中日なので、今日は部屋を片付けたあと、池袋のジュンク堂に行ってきまーす(o*・ω・)ノ
大学生活も社会人生活も。
駅から家までの帰り道などで、文字通りよしなし事を考えたりするのだが、ぼやぼやしているので別にどうにもならないし、結論とかは出ない。
ただ、革靴や電車の往復や早起きにも慣れ、土日の過ごし方も今までよりは密度が濃くなり、ランチの質は少しだけ上がり(平均単価が200-300円くらい増えた)、とか何とかいう感じで毎日過ごしていると、まあこれはこれでいい。
しかも、忘れていた頃に給料だとかボーナスだとかいう話が出てくるので、これでお金をいただけるなんて、何てありがたいことでしょうか、23才まで健康に育つことができて感謝感謝、という感じである。
やっぱり大事なのは、脳みそを使うこともさておき、ごくごく基本的なコミュニケーションスキルなのだと感じるわけですが。
脳みそについては、学生時代真面目にお勉強してよかったなぁと思うこともしばしば。
英語で論文読んでレジュメして発表したり発表に対して質問したり、とかいった訓練は、かなり汎用性の高いものなのだということが分かった。いい教育を受けさせてもらいました。
それよりなにより大事なコミュニケーションうんぬんというお話ですが、結構長いこと苦手意識があったし、今でもめちゃくちゃ得意というわけではない。
とはいっても、これまで付き合いのあった友人知人のみなさまから密かにうとまれている、ということもないようなので、それはハッピーなことだなぁ。友人関係とは少し異なるが、職場でも人間関係は大事だし、結局のところ根は一緒である。
家に帰ってゆっくりFinancial Timesを読んでいるときとか、職場のBloombergで何ができるかいろいろと試している時とか、柄にもなく統計学やらファイナンシャル・リスク関連の勉強をしているときとか、ちょろっと振られた仕事をとっとと片付けようと集中してExcelを(マウスは極力使わず)使っているときとか、行き帰りの電車で読書に集中するときとか、休みの日にどこか目新しい場所に遊びに行くときとか、日々の生活の中で何かしら没頭できるポイントがちょろちょろとあるのは悪くない。
ところで、Man On Wireという映画はとても良さそうですね。
23才になってはじめて気づいたのだが、休みを楽しむにもスケジューリングが必要らしい。
来月からサラリーマンになるということで、ついつい調子に乗ってamazon.frでデカルト関係の本を100Euroほど購入したり(来月は200Euroほど買いたい)、加えて、日本のamazonや日本の古本屋などで、デカルト関係のメボしい古書を購入するなど、ネクラに楽しい日々を送っている今日この頃。
結局16日から香港に行くことにしたので、ほかには特に旅行も行かず、おうちで読書。たまに飲み会。
ガチでマニアックな哲学ネタなのですが。
フランツ・ブレンターノ(1838-1917)というウィーンの哲学者は、その後のウィーンにおける哲学の流れに大きな影響を与えたのですが。その門下でもっとも代表的なの哲学者はフッサール。
世紀末から大戦前にかけてのオーストリアの哲学というのは、現代の英米圏の分析哲学の故郷である。
ブレンターノの哲学は反ドイツ観念論的な特徴を強く持っているとよくいわれますが。
それでは、そういった哲学が出てきた19世紀中頃のウィーンの知的状況はいかなるものだったのか、というのが気になるわけである。
カントとブレンターノの間に何があったの? という話。注意しなければいけないのは、当時のドイツ語圏は広いし、ドイツとオーストリアとでは(もちろん相互の交通はあるにしても)知的な風土が明らかに違うというところ。
じゃあ、一体どういう背景があるのか、ということだけで一本くらいのサーベイ論文が出来てしまいそうなのだが、とりあえず二次文献の引用だけを...
キーパーソンはボルツァーノ(1781-1848 ; SEP)で、19世紀前半の数学史には絶対出てくるような人ですが、かなり勉強しないと著作は読解不能だと思う。とりあえず名前だけはチェックしておきたい... ということですな。
"Bernard Bolzano. Philosophie de la logique et théorie de la connaissance"という特集がケベックの哲学雑誌でありました(ここ)。PDFで全部ダウンロードできるし、執筆陣もその筋の有名人多数である。
ドイツ語がそこまでできないので、そちらの調べはさっぱりついていないのだが、フランス語圏での研究がなかなか盛んなようである。日本語では四十年くらい前に研究者が一人いるけど... という感じみたいです。
カント以降、哲学者が扱う問題というのは、明らかに専門化していく... というと言い方があいまいだが、とにかくスコラ的な全体性が露骨に失われていくのだが、そこは非常に興味深い。
オーストリア以外にも、英独仏(+アメリカ)それぞれで、数学と哲学との関係とが見直されていったりなんだり、という流れがあるので、論理学史や数学史などの
面から見ても面白いし、もちろん哲学史の観点から見たら、やたら複雑なだけになおさら興味深いのが19世紀の哲学史である。
あと、若干金融とも関係ある点として、確率論の形成というテーマがありますな...
ドイツの哲学史/論理学史/数学史家。論文がどれも興味をそそります。HP
Volker Peckhaus, "19th Century Logic between Philosophy and Mathematics", The Bulletin of Symbolic Logic 5(1999). (PSファイル)
What were the reasons for the mathematicians’ interest in logic?
Foundational problems and problems in grasping new mathematical objects forced some mathematicians to look intuitively at the logical foundations of their subject. The interest in formal logic was thus a result of the dynamic development of late 19th century mathematics. One should not assume, however, that this was a general interest. Most mathematicians did not (and still do not) care about foundations.
経済学者の方のフォン・ミーゼス
Ludwig von Mises, "The Historical Setting of the Austrian School of Economics". (ebook)
In the climate of freedom that these statutes warranted, Vienna became a center of the harbingers of new ways of thinking. From the middle of the sixteenth to the end of the eighteenth century Austria was foreign to the intellectual effort of Europe. Nobody in Vienna —and still less in other parts of the Austrian Dominions— cared for the philosophy, literature, and science of Western Europe. When Leibniz and later David Hume visited Vienna, no indigenes were to be found there who would have been interested in their work. With the exception of Bolzano, no Austrian before the second part of the nineteenth century contributed anything of importance to the philosophical or the historical sciences.
But when the Liberals had removed the fetters that had prevented any intellectual effort, when they had abolished censorship and had denounced the concordat, eminent minds began to converge toward Vienna. Some came from Germany —like the philosopher Franz Brentano and the lawyers and philosophers Lorenz von Stein and Rudolf von Jhering— but most of them came from the Austrian provinces; a few were born Viennese. There was no conformity among these leaders, nor among their followers. Brentano, the exDominican, inaugurated a line of thought that finally led to Husserl's phenomenology. Mach was the exponent of a philosophy that resulted in the logical positivism of Schlick, Carnap, and their "Vienna Circle." Breuer, Freud, and Adler interpreted neurotic phenomena in a way radically different from the methods of Krafft-Ebing and Wagner-Jauregg.
その筋では有名な哲学者。HP
Peter Simons, "Judging correctly : Brentano and the reform of elementary logic" in The Cambridge companion to Brentano.
The nineteenth was logic’s breakthrough century. At its beginning, logic had just been claimed by Kant, in justified ignorance of Leibniz’s unpublished advances, not to have advanced since antiquity, and the laws of logic were soon to be submitted to the indignities of Hegel and to suffer the scorn of Mill. What started anachronistically in the 1820s with Richard Whately as a modest “back [beyond Locke] to Aristotle” movement in Oxford, trying to reinstate scholastic ways of doing logic after the long dark centuries since Ramus, inspired others lacking the desire to turn the clock back to reconsider logic and its role. This gathered momentum, and what began as a revival turned into a reform and then became a palace-storming revolution. Bolzano’s obscurely published and tragically ignored 1837 masterpiece Wissenschaftslehre invented modern semantics, while ten years later in 1847 Boole and DeMorgan used mathematical methods and algebraic analogies to propel the study of inference out of the humanities and into mathematics. The twin giants of later nineteenth-century logic, Peirce and Frege, independently made huge strides of innovation: propositional logic, relations, quantifiers all received rigorous treatment. There were many other considerable logicians: Jevons, Venn, Schröder, MacColl, Neville Keynes, and Lewis Carroll all made notable contributions. By the turn of the twentieth century logic had come further in a hundred years than in the preceding two thousand, and was soon to see its flowering at the hands of Whitehead and Russell, Gödel and Tarski, Church and Turing, and many others.
これはヤバいww
この一週間ほど、だらだら星人になっています。そんな星聞いたことないとか言わないこと。
練馬区光が丘のだらだら星から、近所の自動車学校までは自転車でわずか五分。
半年前に仮免一歩手前まで取ったあと放置していた教習を再開。
教習に行って帰って寝る、という極限までだらだらしまくりの生活を送っています。
だらだら星では読書が最大の美徳とされます。
本を読んでメシ食って寝る、というのがだらだら星人の一日の生活です。
昨日は祝日だったので、近所のBook Off(教習所に行く途中にある)で単行本500円均一セールをやっていました。
このブックオフは大きめの倉庫くらいの広さと天井の高さがあり、経済書・ビジネス書・投資本などにめっぽう強い。
ということで昨日はこんな本を値札(1200円とか)に関わらず500円でゲットしちゃいました☆
梶井厚志、松井彰彦『ミクロ経済学:戦略的アプローチ』
ティモシー・ミドルトン『債券王ビル・グロース常勝の投資哲学』
いやーおトクだった。
とはいっても、一冊目は気合いを入れ、なおかつ他のミクロ経済学の入門書や問題集などと一緒に進めなければいけない、ほどほどにガチな本なので、だらだら星人のままでは読みすすめられません。
だらだら星には学部レベルの経済学の本が増えつつあるのですが、いかんせん住んでいるのがだらだら星人なので、まだきれいなままです。
二冊目はタイトルが例によってクソですが、債券ポートフォリオ分析とかいう、経済学部の院合同の授業に出席したら、あまりの数学的高度さと先生のガチムチさ怯え、瞬時にして退散したけれども、債券にとても興味があるような人にとっては面白いのです。
まあ、実際にどういうようなやり方で運用しているかということが分かる。
著者は、その筋では超有名人でPIMCOという債券専門の資産運用会社のトップである。ちなみに、ここのマーケットレポートはとても有用である。
それはともかく、PIMCOの新興市場部門のヘッドが書いたWhen Markets Collideという本が、今回の金融危機の本質を2007年の段階で的確に捉えていたとしてちょっとした話題になっていて、さあ買おうかなと思っていた矢先に邦訳が出るということで、機先をそがれた感じである。
とはいっても、自分の英語力はまだきちんと金融英語に対応しておらず、論文や新聞のコラムやblogの記事などならまだしも、本を一冊丸ごと... ということになれば日本語で読んだ方が断然きちんと理解できるから、タイミングは良かったのだが。
経済学や金融関係の本を読んでいくにつれ、やっぱり、これを大学で専攻する気には到底なれなかったのもムリはない、というような結論に落ち着いた。
やっぱり、大学の中に引きこもって勉強するなら、歴史とか哲学史とか、この世と全く関係ないことをやっていた方が自分としては充実度は高かった。
別にそれは、経済や金融にまったく向いてないから絶対無理! ということではなく。もう一度学部生活を送り直せるとしても、やる気にはならないだろうなぁということである。今からやるのである 笑